世界シリーズ・第二界 世界を売ってみませんか?

   



第一部 起(機)



 夕暮れ時の人気のない茜色に彩られた坂を学生服の少年が下っていた。
 少年の名前は相坂伊鶴(いづる)
 学生服を着ていることからわかるように、長く高い坂の上――というより高いので山の上と形容しても問題はないだろう――にある学園の生徒だ。
 男女共同中・高一貫であるこの学園、そこにイヅルは高校の時から通い始めたのだ。
 が、外部の中学からの受験組でなく最近転校してきた転校生で、今は2年3組に在籍している。
 この坂は学園の特色と言ってもいいくらいな具合で、学園からふもとまで15分はかかるという長さっぷりで日々学園の生徒を苦しめている。
 坂では下校時間には中高混合による大名行列のような下校風景が見られ、初めての人間は驚き固まる、と言われるほどにこの学園は人数が多い。
 しかし今はイヅル一人だけで、いつもの人波がないからか1.5倍くらい広く見える坂を淡々と歩いていた。
 午後四時半。
 真っ先に下校する帰宅組の授業終了時間と、部活で遅くなる学生が一斉に下校する部活終了時間の間に挟まれた、ちょうど凪のような時間帯。
 彼が何故そんな時間帯に下校しているか、それは簡単に説明できる。
 大多数の高校生が部活に所属しているようにかれも所属しているのだ。

 自称・『オカルト研究部』
 通称・『嶺柄(みねつか)ミネコの秘密結社』

 名称よりも通称の方がインパクトあることからお分かりのように、まあ問題ある部活なのだ。
 否、問題あるのは部活ではなく嶺柄ミネコだ。
 秘密結社などと言われてることから理解(わか)るように、嶺束ミネコという生徒が牛耳り私物化している部活なのだ。
 まあ部活に通称がある時点で普通ではない。
 その暴君と唯一の部員であるイヅルによって構成される部活は、結社のくせに二人しかいないので片方の都合が悪いと(ほぼ嶺柄だが)当然中止になる。
 今回もそれで、さんざん待ったあげくにやっと来たと思ったら
「君、まだいたの?」
 その一言を残してさっさとどっかへ行ってしまった。
 突如やり場のない気持ちが誕生したが、だれも出産のご祝儀をくれそうにないので名付けずに心の奥にしまう日々を送っている。
 そんな先輩だが、付き合っていてメリットもちゃんとある。
 まず校内で初対面の人には必ずと言って「大変だねぇ」などと憐れんでくれて自己紹介をする必要がなく、転校したてなのに馴染むを通り越して有名人になってしまった。
 そのために大変な思いをせずに学園に溶け込めることができた。
 やや後ろ向きであるがそれが一番のメリットだろう。
 当然ながらそれだけではない。
 意外と知られてないが、彼女の話はおもしろい、というより興味深い。
 奇矯、変人が多いこの学校の中でも一線を(かく)した傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な人物で、オカルト研究部などというゲリラ的な部活の部長。
 オカルト研究部などと銘打っているが、研究対象は宇宙人やUMAだけではない。
 オカルト―――超自然的で神秘的なもの、つまり目に見えないけどちゃんとある物、確かにある物をあらゆる視点、科学的、・科学的・歴史的観点から探索・解明・解析を行う。
 例えば呪。
 例えば死。
 例えば神。
 例えば心。
 知識倉庫(シンクバンク)と言ってもよい程の知識量。
 そしてそこから導きされる彼女独特の理論(ロジック)
 それはたまに突拍子もない結論にたどり着くこともあるが、それはそれで味があったりと、とにかく優れている。
 そういうオカルト系の情報を集めるのが趣味のイヅルにとって、それは大変喜ばしいことであった。
 今まで本を読んだりして知識を集めることはできても、議論する相手がいなかったので、まあ仲間ができたという感じなのだ。
 イヅルの彼女に対しての総評は、彼女にするには嫌だが友達にするなら良いタイプ、というひどいものである。

 そんな益体もないことを考えていたイヅルは急に立ち止まった。
 そこは何もない、ただの道の途中だとしか形容のしようがない場所だ。
 坂の終わりが近い、時間が時間なら学校に関係がない人も利用するようになる地点。
 そこからは街を一望、とまではいかないがそれなりに見渡すことができる。
 もっと近くで見ようと近づくなら、見渡す限りに人どころか通る車もないために仕事を放棄している夕陽色に染まったガードレールに行く手を阻まれるだろう。
 その先にはコンクリートで舗装された斜面、といってもほぼ垂直なので(がけ)といった雰囲気だ。
 いささか以上に危険だが転落した生徒の話は聞いたことがないので安全なのだろう。
 イヅルは何を思ったのかガードレールに近づき、それに手をついて、覗き込むように下を見ようとし、

「―――――――――――こんにちは、お兄ちゃん」
「!!」
 何の前触れもなく声をかけられた。
 イヅルは目を見張るほど驚いた。
 急に声をかけられた、からではなくいつの間にか(・・・・・・)視界の隅にいたことに。
 彼の視線の先には、中等部の制服姿の長い髪をたずさえた少女がたたずんでいた。
 否、ガードレールに腰をかけるようにして体重を預けていた。
 ガードレールの向こう側で(・・・・・)
 足を滑らしたら、いや強い風が吹くだけで転落死してしまうのに、何でもないかのように片足を斜面に投げ出している。
 それは見ている方が冷や汗をかくような光景だ。
 それでイヅルは圧倒されたのか少し体がこわばっている。
「き、君は―――」
「私の名前はカミイミウだよ」
 いきなりミウと名乗った少女は快活に笑うでもなく、愉快に笑うでもなく、ただ微笑んだ。
「――――――カミイ、ミウ」
 その名を噛みしめるように、呆然とイヅルは繰り返す。
 そんな彼を見て、彼女―――ミウはくすくすと笑う。
「そう、ミウって呼んでいいよ」
「あ、ああミウちゃんね。俺のことは―――なんて呼びたい?」
「? お名前は?」
 彼女は学園の生徒にあるまじきことに彼を知らないらしい。
 彼のおかげで嶺束ミネコの奇行が減り、安眠できる人(授業中に)が増えたという偉業を成し遂げた有名人物なのにだ。
 その反応が珍しかったからか、イヅルはどもってしまう。
「………イヅル」
「イヅル君? 珍しい名前だね。じゃあ、イヅル君って呼んでいい?」
「――――――っ、いいよ……」
「あれ、お兄ちゃんの方が良かった?」
「ん、いや女の子に名前呼ばれたのは久しぶりだから驚いただけ。それと―――知らない人にお兄ちゃんなんて言っちゃダメだろ」
「はーい、わかった」
 いさめるイヅルにそう軽く答えるとミウはくるり、と体を回して彼とガードレール越しに向き合う。
「それで、イヅル君はどうしてこんな所で黄昏(たそがれ)ているのかな?」
「別に黄昏ているつもりはなかったんだけどな………」
「そう? 今にも、飛び降りそうな雰囲気だったよ」
「いや、自殺する気はないよ。もう」
「もう、って本気だったの?」
「そりゃ、こんな可愛い女の子に声をかけられたら自殺もやめますよ」
「あはは、じゃあ私はイノチの恩人だね!」
「ははっ。じゃあ、お礼しようか」
「ホント!?」
 ナンパするように、というかナンパそのものなセリフでミウを誘う。
「ああ、どこか喫茶店で話でも」
「じゃあねじゃあね」
 それを華麗にスルーするミウ。
 そして何の感慨もなく気軽に望みを言った。
「あなたの―――世界を私にくれない?」
 お菓子ちょうだいとでも言うように。
 イヅルは一瞬言葉に詰まる。
「―――――せ、世界?」
「そう、あなたの世界」
 世界。ワールド。
 それは物ではない、概念(がいねん)上のモノ。
 なので譲渡(じょうと)はできない、そのため日本語的に少しおかしい文章になっている。
 それどころか意味すらわからない。意図すらわからない。
 だけど。
 その一言だけで、イヅルは理解してしまった。
 夕暮れ時。
 昔の言い方で、逢魔(おうま)が時。
 いわく、人外のモノと出会いやすい時間帯。
 凪ではなく、むしろ嵐のような時間帯。
 崖の淵に立つという常人には無理な行動。
 長い黒髪に、声をかけられるまで気付けなかった存在感の薄さ。
 それは、まるで――――――。
 危険だ彼女に関わってはいけないと、本能がイヅルの頭の中でガンガンと立ちくらみがする程の警鐘を鳴らしている。
 ――――――これ以上、ソレといてはだめだ!
 彼女に圧倒されたのか本能に従うつもりなのか、イヅルの足がジリと後ずさり、
「―――待って!!」
 たったそれだけの様子を見てミウが悲壮(ひそう)な声を上げる。
 顔に浮かんでいた微笑は一瞬で消え去り、代わりに今にも泣きだしそうな悲痛な表情になっている。
 ガードレールに行く手を阻まれてか、イヅルに近寄ってこないが今にも足もとにすがりつかんばかりの勢いだ。
「………お願い」
 手はガードレールを強く握っている。
 (おり)の中の囚人のように。
 籠の中の鳥のように。
 先ほどの恐怖は消え去り、今ではむしろ憐憫を誘う程。
「何でもするから………」
 それは年頃の少女が言うにはどれだけ重い言葉だろうか。
 友達との()れ合いではなく、見知らぬ男に言うには。
 それ程までの強い決意。
 彼女が何故そこまで『世界』とやらを望むのか?
 そんな異常としか言えない光景を目の当たりにしたイヅルは、
「じゃあ4万円で」
 即物的な要求をした。
 これ以上ない程の即物的だった。
 むしろお前が即身仏ななれと言いたい程だった。
 そんな場違いとも言える言葉にミウは口をあけて唖然とする。
「高い? なら4千円で」
 今の重い雰囲気を壊すようなおちゃらけた声に、ミウは破顔する。
「ふふっ、4万円から4千円ってすごい値下げだね」
「『世界』の相場なんて知らないからな」
 先ほどの悲壮な顔とうって変わって、満面の笑顔になる。
 そんな年頃の少女の表情の多彩さに、イヅルはあきれたような安堵したかのような溜息をつく。
「本当に世界をくれるの?」
「なんか、悪役のセリフっぽいが、まあ僕があげられるものなら」
「じゃあ、4千円………は悪いから4万円でいい?」
「ああ、4万円な」
 こんな途中から聞いたら別の交渉しているように聞こえる会話を女子(しかも中学生!)としているのを、知り合いに見られたらイヅルの身は破滅するだろう。
 そんなことに気づかず二人は会話を続ける。
「でも、何で売ってくれるの?」
「何でって………欲しいって言ったのはミウだろ」
「そうだけど―――『世界』ってなんなのか知らないんでしょ?」
「ああ、皆目見当つかない」
「なのに売るって………………大切なものかもしれないんだよ?」
 ミウはどこか(とが)めるような目つきで、(さと)すように言う。
 イヅルは、そんな自分が損しかしないであろう助言をするミウを見て苦笑する。
「全く……そんなこと言うなら売るのやめるぞ」
「え………」
「『世界』ってなんなのか分かんないし、確かにもったいないかもなあ」
 わざとらしくそう意地悪く言うイヅルに、ミウは血相を変えて迫る。
「だっ、だめっ! そんなのダメ! そんなことになったら私―――」
「なら」
 ミウの言葉をさえぎり、イヅルは強く言う。
「なら、ミウは買って僕は売るしかないだろう」
「あ……」
「相手のことばかり考えてても、人生、幸せつかみ損ねるぞ」
 高校生が見知らぬ中学生に人生を説く。
 そんなハタから見たら笑ってしまうような光景だが、本人たちはいたって真面目な表情をしている。
「遠慮なんてするな、さびしいだろう」
 ミウがイヅルの身内であるかのようになれなれしく、軽々しく笑いながら言う。
 その笑顔を見たミウは、はっ、としてすぐにうつむく。
「本当に………いいの?」
 試すように、どこか(おび)えながら、確認する。
「おう」
 あっけらかんと気楽に返すイヅル。
「で、でも………」
 対照的にミウは躊躇(ちゅうちょ)する、というより戸惑っている。
 こんなにうまくいくとは彼女自身思ってもいなかったのだろう。
 なにせ、これは取引なんてやさしいものではない。
 等価交換から外れた詐欺のようなモノ。
 なのに詐欺師が怯え、カモが誘う。
 彼が強気なのは、オカルト本を読み(あさ)ってこういう状況に馴れ親しんでいるからだろうか?
 それならば彼は愚かだと言うしかない。
 少し前の年下の少女に圧倒されたという事実を忘れてしまっているのだから。
「でも、4万円も持ってない……」
「なら」
 何でもないかのようにイヅルは言う。
「分割でいいよ」
「分割?」
「そ。少しずつくれればいいから」
 諭すような、そっけないような口調でミウの瞳を見ながら言う。
「次、会った時に」
「………」
 ミウは驚いて目をまん丸くする。
『世界』が何なのか分からないが、彼女が欲しているものを譲ってくれるといい、果てには代金すら待ってくれるという。
 そんな破格の対応を取られたら驚くしかないだろう。
 逆に怪しいといぶかしんでオロオロしてしまう。
「欲しいんだろ―――『世界』」
 自分から進んで売りたいかのようなイヅル。
 まるで楽しんでいるかのように笑っているイヅルのことを見て、深く考えるのをやめたのか細めた眼でイヅルを射抜く。
「じゃあ」
 挑むかのような少し語気が強い言葉に、イヅルも居住まいを正す。
「イヅル君の世界――――いただきます」
 ミウは目を閉じたかと思うと、手を伸ばしイヅルの腕を掴んで彼の体ごと自分の方に引き寄せて
「――――――――――!?」
 抱きついた。
 ガードレール越しの奇妙な抱き合い。
 抱擁、というよりしがみつくように力強い、子供が親に抱きつくような抱き合い。
 少女特有の甘さと柔らかさにドキドキを通り越して土器土器してしまう、などと考えてしまうくらい混乱するイヅル。
 イヅルの視線の先には、小さな頭とそのうなじが見える。
 抱き合っているのでイヅルの胸板には中学生らしいつつましい、まあ、幸せな気分で一杯になる部位が押し付けられている。
 目と鼻の先にあるキレイな黒髪からは、シャンプーではない女性独自の香りに頭がくらくらする。
 その髪に顔をうずめたいなどと変態チックな考えも浮かんだりと、悪魔が誕生して心の中の天使と大戦争を勃発させている。
 ちなみにオッズは3対7で悪魔有利。天使弱すぎ。
 悪魔側が優勢のせいで、ここは抱き返すべきか? と妙な気を利かせようと考えてしまう。
 おそる、おそるといった感じでイヅルもミウの背中に手を回そうとし、
「はいっ、おしまい!」
 急にミウが離れて空振りで終わった。
「…………………」
「どうしたのイヅル君?」
「……いや、別に」
 平静を装おうと、両手を合わせてウナギのように動かしている不自然すぎるイヅルをミウは不思議な目で見ている。
 しかしすぐに興味が失せたのか、今の行動の説明を始める。
「イヅル君の―――『世界』―――は確かにもらいました」
「そう」
「………聞かないの?」
「何を」
「………………『世界』について」
「まあ、大丈夫だろ。命を取られるかと思ったけど体もちゃんと動くし」
 イヅルは肩をぐるぐる動しながら答える。
 そんな軽い対応に、ミウはイヅルのことを楽天家(はっきりいうなら馬鹿)だと判断した。
「はぁ……。なら、私はそろそろ時間だから帰るね」
「………帰るって」
 何処に? と聞きたいのをイヅルはこらえる。
「じゃあな」
「うん、またねイヅル君」
 そっけなく、ただすれ違っただけかのように言葉を交わす。
 彼はそのまま一度も振り返らずに坂を下る。
 振り返っても彼女はもういないだろう、と感じたから。
 そうしてイヅルとミウは別れた。
 再開の約束をせずに、ただ別れた。


 夜。
 その後、自分だけの家に帰ったイヅルは、夕食を食べ、風呂も入り、宿題も終え、調べ物も終わり、今日すべきことがなくなったので就寝しようとしていた。
 自分だけの家、というのは文字通りに彼しか住んでいないのだ。
 数年前に親が離婚したので、イヅルは父親についていくことになり一緒に暮らしていたのだが、父親が転勤することになりせっかくなので一人暮らしを始めたのだ。
 本当はもう少し色々あったのだが、面倒くさいので割愛。
 粗筋としてはこんなものだろう。
 家といっても学生向けのワンルームマンションなのでほぼ一部屋しかなく、家というより部屋と言う方がしっくりくる。
 イヅルは消灯した部屋で布団の中で(ベットは大きいので無い。この有無が死活問題となることから部屋の狭さを察していただきたい)寝るまでの間に考えことをしていた。
 内容は無論、夕暮れの少女―――ミウのことだ。
 何で、彼女と関わってしまったのか?
 常人なら3秒とかからず(きびす)を返して逃げ出すシーンだったのに。
 もちろん、そういうことに慣れ親しんでいたからという間抜けな理由からではない。
 むしろ、怪奇現象やらを好んでいるイヅルでさえ戦慄してしまう程だったの。
 危険だと、理性どころか本能まで告げていたのに、なぜ関わりをもったのか。
 何故、彼女に『世界』を売ってしまったのか?
 世界。
 英語でワールド。
 フランス語でモンド。
 物体ではなく概念がゆえに多種多様な使い方をされる単語。
 一つ、地球、というより森羅万象すべてを対象にした言葉。
 一つ、前のから限定して人間社会だけ。浮世、世間などを指す言葉。
 一つ、同じ物の集まりなどの特定の範囲を示す言葉。
 大きく分けてこの三つぐらいか。
 これらを『世界』に当てはめると、『売る』という動詞では意味が通じない。
 しかも、売ったはずなのに売る前とは体調も周りの環境も何も変化はない。
 もしかすると、あれは単にからかわれただけだろうか。
 だけど、言葉では通用しない迫力が彼女にはあった。
 ミウはイヅルが楽天家だと判断したが、しかしそこまでイヅルは馬鹿ではない。
 むしろ聡明でさらにそれを補う第6感が鋭いため、こういう危機感などは人一倍敏感(びんかん)だ。
 あの少女との取引が非現実な事態を引き起こすであろうことは想像がついていた。
 それでも、売ってしまった。
 売ってほしいと言われたから売ったという単純な訳ではない。
 彼女の必死な態度を見たから、悲しそうな顔をみてしまったから。
 なのだとしたらカッコいいのだろうがそんな話でもない。
 多分、何らかのつながりを持っていたかったのだろう。
 彼女とまた会いたいそう思ってしまったのだ。
 それだけ、なのだろう。
 会う時間も約束してないし、お互いの在籍しているクラスも教えていない。
 それでもイヅルはまた会える、そう不思議な確信をしていた。
 そんな事を思っていると、いつのまにか意識は落ちていた。

 
 朝。
 昨日の不思議体験のせいか少し気だるげに起き上がる。
 朝飯は食べないたち―――というより少しでも長く寝ているため―――なのですぐに制服を着て学園に行く支度をする。
 少し体が重い気がするがこの程度で学校を休むわけにはいかない。
 休んだ次の日には、嶺束ミネコの伝説が更新される羽目になるからだ。
 今日も学園の平和は彼にかかっている。
 

 坂の途中。
 イヅルは昨日彼女と会話した場所で立ち止まる。
 そこに何かを見ているのか、イヅルは判然とせず眺めている。
 彼女とまた会えるかも、と思ったが都合よく同じ場所で同じ人に出会えるわけもなく彼女はいない。
 気が済んだのか、彼はまた学園への坂をのぼりはじめた。
 

 イヅルはいつもの坂(所要時間15分、長い……)を珍しく知り合いに会わないまま上りきり、下駄箱で靴をはきかえ自分の教室へ向かう。
「おはよー」
 ガラリと扉を開けて教室に入りながら挨拶をする。
 いつもなら不特定多数から返事が返ってくるのに何もない。
「?」
 誰もいないのか、と一瞬思ったが少なくない人数がちゃんといた。
 返事どころか誰もこちらを見てすらいないようだ。
 まあ、そんなこともあるかと少し疑問に思うだけで、自分の席に向かう。

そこで

「おはよー、イヅル」
 やっと背後から声がかかり、どこか安心した気持で返事をしようと振り向く。
「おはよう」
 振り向く前に彼とは別の声(・・・)がそれに返していた。
「イヅルぅ。なあ、宿題やってきた?」
「忘れちゃった」
「おいおい、当てにしてたのに〜」
「イヅルは昨日のあれ見た?」
「ごめん、昨日はすぐ寝ちゃったから」
 イヅルに対する言葉が、イヅルのものではない声が返事をし、会話している。
 誰もそのことを指摘しない。
 その声は自分の声どころか、男の声ですらない(・・・・・・・・)のに。
 男の名前に少女の声が対応する。
 普段なら笑いを誘う冗句なのに。
 それは怖気しか呼ばなかった。
 自分の名前がドラマの登場人物と同じだった時のような感覚。
 否、自分の名前が取られたような感覚。
 声のした方を見る。
 それは予感。
 それは悪寒。

 そこには、ミウと名乗った少女が快活に笑うでもなく、愉快に笑うでもなく、ただ微笑んでいた。
「おはよう、お兄ちゃん」
 彼女はイヅルの席に座り、男用の制服を着ていた。
 男装した少女がいるのに、どうみても高校生には見えない小さな体躯のクラス外の人間がいるという違和感があるのに誰も騒がず、彼女は平然と座っていた。
「………何で!?」
 だけではなく、イヅルの友達とまるで友達のように自然に会話をしていた。
 本当に彼女が自分であるかのような、不自然な対応。
「何で!?」
 そして、誰一人として叫んだイヅルを見てすらいないということ。
 まるで自分が目の前にいないかのような皆の態度。
 シカトなどでは絶対にない、悪意すらない態度。
 いつの間にか演劇に巻き込まれ、自分だけ台本を渡されていないような状況。
 まるで、登場する世界がいつのまにか違ってしまったかのように。

 だが、一人だけ自分を見ている人物がいた。
「『世界』―――ちゃんともらったからね」
 彼女は猫のように邪悪気に笑った。
 まるで自分の世界(いばしょ)を奪われたようだった。

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第二部 承転(衝天)

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